ナツの思いつき

第二のツイッター

ないものねだりと慣れ

以前の毎日当たり前のように行えていたことがコロナ禍の状況に置かれてから当然当たり前を欲するようになった。例えばマスクは息苦しいから外したい、大学の友達が少ない、対面授業がしたいなど特に今の学生は共感する部分も多いと思う。

 

あとは旅行にいきたい、映画館に行きたい、遊園地にいきたい、など日常生活には娯楽が必要だととても感じる。

 

しかし1年こんな状況が長く続くなんて思わなくて人間悲しいことにある意味非日常に慣れてきてしまう。

 

また

マスクを外したい⇔顔の下半分を見られるのが恥ずかしいから外したくない

大学の友達が少ない⇔遊びにいけそうなくらいある程度できたからもう十分

対面授業がしたい⇔zoomが楽だからゼミと実習以外オンラインでいい

 

などないものねだりだったのに慣れによってあるものねだりから個々の生活をいかに楽に充実させるかへ方向が変わったように感じる。自分が現役大学生だからかもしれないが周りの状況をみるといい意味では若い人は順応機能が優れていると思う。

しかし若いうつにできること、とくに時間がたくさんあるうちに出かけて何かを得ることは大事なはず。それができない期間が長くなると学生コンプレックスを将来引きずるとめんどくさい大人になることを自分にも学生にも懸念している。

 

旅行や映画館、遊園地などはオンラインで行った気分になれる工夫はあるが百聞は一見に如かずでありこれはないものねだりの精神を皆が抱えていると思う

 

コロナ禍のおかげで団体ではなく個人、多様性がキーワードになり多様化に順応した生活を進めるのは悪いことではない。

でもいくら技術が発達したって生身で触れたり感じたりをしたい!という精神をどう絶やさないか、そのときにしかできなかった体験をコロナ後に取り戻せるような関心を諦めさせないことを自分も社会も考えていけるくらいの余裕のある社会ならば積もった不満が分散するのかな

 

なんて思った。